最も休めない人たち — 中小企業の事業再開と、経営者自身の健康

本記事は2026年7月28日23時時点の公表・報道情報に基づいています。令和8年熊本地震の被害の全容はつかめておらず、死者・負傷者の確定数、ライフラインの復旧見込み、個別事業場の被害状況はいずれも現時点では確認されていません。制度・支援策の記述は執筆時点の公開資料によるもので、災害ごとの措置が今回適用されるかは各所管窓口でご確認ください。

産業医の選任義務は、常時50人以上の労働者を使用する事業場にかかります。裏を返せば、それ未満の事業場に産業医はいません。そして日本で働く人の過半数は、その「それ未満」で働いています。さらにその内側に、労働者ですらない人がいます。経営者本人です。本シリーズは17本にわたって「事業者は従業員をどう守るか」を書いてきました。最終稿は、その名宛人自身の健康を扱います。

目次

誰も健康を見ていない層

日本産業衛生学会政策法制度委員会の2024年の提言は、令和3年経済センサス活動調査をもとに、日本の労働者人口約5,800万人のうち57.5%が従業員50人未満の小規模事業場に勤務しているとしています。これらの事業場には産業医・衛生管理者の選任義務がありません。代わりに、常時10人以上50人未満では安全衛生推進者または衛生推進者を選任し、医師等に健康管理を行わせるよう努めること、安全衛生委員会に代えて関係労働者の意見を聴く機会を設けることが求められます。義務ではなく努力義務です。

そのうえで、経営者本人はこの枠組みのどこにも入りません。健康診断の対象は労働者であり、事業主は原則として含まれません。

労災保険は経営者を守らない(原則として)

労災保険は本来、労働者を対象とした制度です。事業主、自営業者、家族従事者は労働者ではないため、原則として労災保険の対象外です。これを補うのが特別加入制度で、中小事業主等(常時使用労働者数が、金融業・保険業・不動産業・小売業は50人以下、卸売業・サービス業は100人以下、その他の業種は300人以下)は第1種特別加入の対象になります。ただし加入には、雇用する労働者について労働保険関係が成立していること、労働保険の事務処理を労働保険事務組合に委託していることが要件です。

加入していれば復旧作業中の負傷が補償の対象になり得ますが、していなければ、同じ作業で同じ怪我をしても従業員は労災、社長は自己負担です。

最初に削られるのは睡眠である

発災後の経営者の一日は、被災者としての生活再建、事業者としての設備確認と取引先対応、雇用主としての従業員の安否と給与の判断が同時に走ります。しかも多くの場合、代われる人がいません。削られるのは睡眠です。

厚生労働省の睡眠関連資料では、成人はおおむね6時間以上の睡眠が望ましいとされ、睡眠6時間未満の男性労働者は7〜8時間の者と比べ心血管疾患の発症リスクが有意に高いと示されています。労働安全衛生総合研究所の資料でも、勤務日の睡眠が1日5時間以下では6〜8時間と比べ心筋梗塞リスクが2.5倍、週労働61時間以上では週40時間以下と比べ1.9倍と報告されています。

これは道徳の話ではありません。経営者が倒れれば事業が止まり、従業員の生活が止まります。経営者の健康管理は福利厚生ではなく、事業継続の要件です。

本シリーズの偏りについて

記事01から17まで、本シリーズはほぼ一貫して「事業者」「人事総務」「産業保健職」を名宛人に書いてきました。安否確認をしなさい、暑熱対策をしなさい、立ち入りを誰が決めるか明確にしなさい——必要なことですが、いずれも誰かに負荷をかける指示でもあります。従業員20人の会社では、その負荷はほぼ全部が社長一人に集まります。本シリーズはその点を十分に扱ってきませんでした。率直に認めておきます。

従業員10人の会社で、現実にできること

衛生委員会を設置せよ、産業医面談を組め、という提案は10人の会社では機能しません。規模に見合う手だけを挙げます。

  • 睡眠を業務として確保する。 「余裕ができたら寝る」では確保されません。連続6時間の睡眠時間帯を決め、その時間帯の電話は別の人が取る当番を作ります。
  • 代行者を氏名で決める。 立ち入り許可者に代行者を置く考え方(記事13)は経営判断にも使えます。「社長が48時間連絡不能になったとき、誰が何を決めてよいか」を紙一枚に書きます。
  • 判断を仕分ける。 今日決めること(人命・安全・給与の支払い方法)、今週でよいこと(部分再開の範囲)、数か月先送りしてよいこと(設備更新、事業計画の見直し)を分けます。先送りしてよい判断を今夜考えないと決めることが、睡眠を作ります。

地域産業保健センターは、50人未満が無料で使える

労働者健康安全機構が50人未満の事業場向けに全国設置している窓口が地域産業保健センター(地さんぽ)です。原則無料、事前申し込み制です。

サービス内容
健康相談窓口医師・保健師が健診結果に基づく健康管理、作業関連疾患の予防、メンタルヘルス等の相談に応じる
長時間労働者への医師の面接指導脳・心臓疾患の予防を目的とした面接指導
個別訪問による産業保健指導医師等が事業場を訪問し、健診結果に基づく指導、作業場巡視、労働衛生管理全般の助言
産業保健情報の提供地域の産業保健資源の紹介

前掲の学会提言は、2021年度の地さんぽ利用実績が事業場数で2.06%、労働者数で8.99%にとどまり、登録・利用のきっかけの95.6%が「労働基準監督署の指導を受けたこと」であったと指摘しています。行政指導を受けなければ存在を知られていない制度です。47都道府県のさんぽセンター(産業保健総合支援センター)も、事業主が無料で相談できます。

再開圧力と、廃業という結末

取引先や元請から「いつ再開できるのか」と問われる事業者は、安全確認の手順を飛ばす方向に押されます(記事13)。ここで加えたいのは、断る根拠を自分の判断の外に置くと楽になる、ということです。応急危険度判定の結果、ライフラインの復旧状況、労働契約法第5条の安全配慮義務——いずれも「社長が慎重すぎる」という話にしないための材料になります。

そして、事業を畳むという結末が現実にあります。廃業と雇用喪失は、それ自体が経営者にも従業員にも深刻な健康リスクです。だからこそ、金銭の相談と健康の相談を同じタイミングで始めてほしいと思います。過去の災害では、日本政策金融公庫の災害復旧貸付、突発的災害の発生に起因して売上高等が減少した中小企業者を対象とするセーフティネット保証4号、小規模事業者持続化補助金の災害支援枠、施設・設備の復旧を支援するグループ補助金・なりわい再建支援補助金、雇用調整助成金の特例、特別相談窓口の設置といった枠組みが講じられてきました。今回どれが適用されるかは現時点では確認されていませんので、必ず所管の窓口でご確認ください。

相談したいこと窓口
資金繰り・補助金・再開全般よろず支援拠点(47都道府県、何度でも無料)、商工会・商工会議所、市区町村の商工担当課
返済/事業の再生・再チャレンジ中小企業活性化協議会(全都道府県、無料、事前予約制)
休業手当・雇用調整助成金・労災所轄労働基準監督署、ハローワーク、社会保険労務士
自分と従業員の健康・不眠・気分の落ち込み地域産業保健センター、産業保健総合支援センター

事業者本人のためのチェックリスト

  • [  ] 昨夜、連続して何時間眠れたか。3日続けて6時間を切っていないか
  • [  ] 自分が48時間連絡不能になったとき、誰が何を決めてよいかを紙に書いたか
  • [  ] 「今夜は考えない」と決めた判断が一つでもあるか
  • [  ] 労災保険の特別加入をしているか。していないなら、自ら復旧作業に入るリスクを認識しているか
  • [  ] 血圧の薬など常用薬を中断していないか(記事06)。地さんぽの連絡先を調べたか
  • [  ] 従業員の前で「大丈夫だ」と言い続けていないか。言い続けている相手が自分にもいるか

シリーズを終えるにあたって

記事01の安否確認に始まり、猛暑、車中泊と避難所、情報の空白、復旧作業の安全衛生、災害関連死、支援者支援、本社の判断、言えなくなるつらさ、断水、感染症、通電火災、再開判断、法定業務、中長期のメンタルヘルス、家庭と就業の両立、外国人労働者への情報提供と続けて、本稿に至りました。

通底しているのは一つだけです。災害の健康影響の多くは、揺れそのものではなく、そのあとの数日から数か月の生活と労働のなかで生じます。そしてその多くは事前に想定でき、対応の余地があります。

本稿で書きたかったのは、その視線を向けるべき相手のなかに、これまで数えられてこなかった人がいるということです。今これを、明かりの落ちた事務所で読んでいるかもしれない方へ。あなたの健康も、この災害の産業保健の対象です。

参考

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