本記事は2026年7月28日19時時点の情報に基づく。状況は流動的であり、最新の公的発表を優先すること。被害の全容、死傷者数、建物被害の範囲はいずれも確定していない。
これから熊本では、点検・撤去・片付けという長い作業の時間が始まる。報道は救助と避難に集中するが、産業保健の側が早い段階で押さえるべき論点がある。災害復旧の作業にも労働安全衛生法令はそのまま適用される、という事実だ。「非常時だから」は免責事由にならない。しかも2025年6月1日から、熱中症対策には罰則が付いた。
前提:復旧作業に「災害特例」はない
自社設備の点検、損壊建物の撤去、取引先の応援、道路の啓開。いずれも通常業務と同じ枠組みで安全衛生の責任が生じる。以下、特に重い5つのリスクを見る。
リスク1:熱中症 — 2025年6月から罰則付きの義務に
改正労働安全衛生規則により、2025年6月1日から職場の熱中症対策が罰則付きで義務化された。対象となるのは、WBGT28℃以上または気温31℃以上の場所で、連続1時間以上または1日4時間を超えて行う作業である。
事業者に課される義務は3つ。(1) 熱中症の自覚症状がある者等を発見した際の報告体制の整備、(2) 熱中症のおそれがある者への対応手順(作業離脱・身体冷却・医療機関への搬送等)の作成、(3) これらの関係労働者への周知。違反に対しては6か月以下の拘禁刑または50万円以下の罰金が定められている。
7月28日、九州7県全県に熱中症警戒アラートが発表され、熊本県内3か所で観測史上最高気温が記録されたとNHKが伝えている。屋外の復旧作業は、この気温要件をほぼ確実に満たす。災害復旧という状況は、義務の適用を外す理由にならない。
現場にWBGT計がないことも多いだろう。その場合も「気温31℃以上」は普通の温度計や気象情報で判断でき、義務が消えるわけではない。実務の軸は、涼しい休憩場所と飲料の確保を作業開始の前提条件にすること、時間を決めて休憩させること、単独作業を避け二人一組で互いを確認させること、最も暑い時間帯を外して作業時間を短くすることだ。加えて、報告体制と離脱・冷却・搬送の手順を紙一枚にして配る。
リスク2:石綿 — 影響が出るのは数十年後
倒壊・損壊した建物の解体や撤去、がれきの処理には、石綿障害予防規則(石綿則)が適用される。環境省は「災害時における石綿飛散防止に係る取扱いマニュアル」を公開しており、災害時特有の状況を前提とした考え方が整理されている。
平時なら着工前に事前調査を行うが、被災現場では図面も所有者も確認できないことがある。判断がつかないまま進めるのであれば、「疑わしいものは石綿を含むものとみなす」という安全側の運用が現実的だ。吹付け石綿と成形板(スレート、内装ボード等)が混在するがれきでは、破砕や乾燥で繊維が飛散しうる。散水による湿潤化と適切な呼吸用保護具の選定が基本になる。
見落とされやすいのは、事業者の管理下にない曝露である。従業員が自宅を片付ける、ボランティアががれきを運ぶ。こうした場面にも曝露は起こりうるが、労働安全衛生法の枠組みが直接には及ばない場合がある。ただし事業者が実質的に作業を指揮しているのであれば位置づけの整理が必要で、この点は後述する。少なくとも自社の従業員には、防じんマスクと「濡らしてから動かす」という原則を伝えておきたい。
石綿の健康影響は、中皮腫や肺がんとして数十年後に現れる。本人がその時点で自分の作業を証明できるとは限らない。誰が、いつ、どこで、何をしたかを記録に残すことは、将来の労災補償の可否を左右する。
リスク3:粉じん・カビ・汚泥
石綿以外の吸入曝露も無視できない。乾燥したがれきからは大量の粉じんが出て、断熱材やグラスウールの繊維、コンクリート粉が混じる。浸水した場所では数日から数週間でカビが繁殖し、汚泥は乾燥後に再飛散する。呼吸器疾患やアレルギーの既往がある従業員の作業割り当ては、事前に検討したい。
リスク4:破傷風
がれきの中の釘、ガラス片、金属片による創傷は、復旧作業で頻度の高い外傷である。破傷風菌は土壌中に広く存在し、汚染された創からの感染が問題になる。日本で破傷風トキソイドを含む定期接種が始まる以前に生まれた世代は基礎免疫を持たない可能性があり、復旧作業に従事する層にもこの世代が含まれうる。導入時期と自身の接種歴は、産業医や主治医に確認したい。
実務としては、創を「泥がついた程度」で済ませず流水で十分に洗浄し、汚染創・深い刺創は受診につなげること。個々の接種歴を母子健康手帳等で事前に確認し、受診時に伝えられるようにしておくと判断が早い。トキソイドによる予防と受傷後の対応は、産業医が個別に医療機関と相談する形になる。
リスク5:重機・不安定物・感電
余震が続く状況で損壊建物に立ち入る判断は、それ自体がリスクである。応急危険度判定を受けていない建物への進入は原則として避け、やむを得ない場合も退避経路と監視者を決めてから行う。重機と人が同一区画で作業する場面では接触災害が起こりやすいが、誘導者の配置と立入禁止区域の設定という基本ほど、混乱下では省略されやすい。
電気の危険には二つの局面がある。停電中の断線・浸水設備への接触と、復電時の事故(通電火災を含む)である。7月28日17時25分時点で県内約4万8,280戸が停電していると報じられており、通電は今後順次進む。自社設備は、点検してから電源を入れる手順を明確にしておきたい。
5大リスク一覧
| リスク | 主な発生場面 | 影響が出る時期 | 最低限の対策 |
|---|---|---|---|
| 熱中症 | 屋外の撤去・点検作業 | 即時 | 休憩・水分塩分・二人一組・作業時間短縮・報告体制と手順の周知(罰則付き義務) |
| 石綿 | 解体・撤去、がれき処理 | 数十年後(中皮腫・肺がん) | 疑わしきは含有とみなす、湿潤化、呼吸用保護具、作業記録 |
| 粉じん・カビ | 乾燥がれき、浸水建物、汚泥 | 数日〜数週間 | 防じんマスク、散水、既往者の配置検討 |
| 破傷風 | 釘・ガラスによる創傷 | 数日〜数週間 | 創の洗浄、汚染創は受診、接種歴の確認 |
| 重機・不安定物・感電 | 倒壊建物、重機作業、復電時 | 即時 | 判定前の建物に入らない、誘導者配置、点検後に通電 |
誰が責任を負うのか — 応援要員・下請・ボランティア
復旧の現場は関係者が入り組む。他事業場からの短期応援、協力会社、初めて入る下請、そしてボランティア。責任の所在が曖昧なまま作業が始まると、教育も保護具も誰の担当でもなくなる。まず自社が発注者・元方の立場にあるのかを確認し、送り出す要員には行き先の作業内容と必要な保護具を出発前に確認させる。ボランティアは労働者ではないが、事業者が実質的に作業を指揮している場合は位置づけを整理したい。
教育に時間が取れないことは前提としてよい。ただし周知の省略を正当化はしない。A4一枚に「今日の気温と休憩時刻」「マスクを外さない場所」「けがをしたら報告」「立入禁止区域」を書いて配り、朝に読み上げる。それだけでも機能する。保護具は発災直後から流通が逼迫しうるため、在庫確認は早めに行う。
産業医・保健師の関わり方
作業前の健康チェックでは、睡眠と食事、前日からの体調、持病と服薬の継続状況を確認する。被災した従業員は自身も生活基盤を失っている可能性があり、「働けるか」だけでなく「休ませるべきか」の判断が要る。巡視では、休憩場所と飲料が機能しているか、保護具が正しく着用されているか、単独作業になっていないかを見る。
記録は、作業日・場所・作業内容・従事者・使用した保護具を残す。熱中症についても石綿についても、後から健康影響を評価し労災を判断する材料はこれしかない。
なお休業手当など労働基準関係の取扱い(労働基準法26条ほか)は、人事総務が厚生労働省のまとめを確認のうえ対応されたい。
復旧作業を始める前のチェックリスト
事業者・人事総務
- 作業場所の気温(またはWBGT)を把握する手段があるか
- 熱中症の報告体制と対応手順を文書にし、作業者に周知したか
- 涼しい休憩場所、飲料、塩分の補給手段を確保したか
- 解体・撤去・がれき処理を行うなら、石綿の可能性を評価したか
- 呼吸用保護具、手袋、安全靴、保護めがねの在庫を確認したか
- 応援要員・協力会社・下請の安全衛生管理の責任の所在を整理したか
- 作業記録(日時・場所・作業内容・従事者・保護具)の様式があるか
作業者に伝えること
- 単独で作業せず、互いの様子を確認すること
- 粉じんの出る場所でマスクを外さず、乾いたがれきは濡らしてから動かすこと
- けが、特に釘やガラスによる創は小さくても洗浄し報告すること
- 危険度判定前の建物、重機の作業範囲に立ち入らないこと
- 体調の変調を「災害だから仕方ない」で済ませず申し出てよいこと
救助の段階が終わっても、健康リスクは終わらない。石綿のように、影響が判明するのが数十年後というものもある。今日の記録が、その時に意味を持つ。
参考
- 厚生労働省 石綿障害予防規則など関係法令について: https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/sekimen/jigyo/ryuijikou/index_00001.html
- 環境省 災害時における石綿飛散防止に係る取扱いマニュアル: https://www.env.go.jp/air/asbestos/saigaiji_manual.html
- 厚生労働省 自然災害が発生した場合の支援や制度について(労働基準関係): https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121431_00177.html
- NHK 熊本県内 各地で猛烈な暑さ 避難所は熱中症に注意を: https://news.web.nhk/newsweb/na/na-k10015188731000
- 西日本新聞 九州7県全県に熱中症警戒アラート: https://www.nishinippon.co.jp/item/1520357/
- NHK 熊本で震度7 けが人多数: https://news.web.nhk/newsweb/na/na-k10015188221000
- 熊本日日新聞 リアルタイム速報: https://kumanichi.com/articles/2018619